なぜ、できる人にばかり仕事が集まるのか
できる人、忙しい人にばかり仕事が集まる。よく美談のように語られますが、その偏りは、組織が腐敗していることの強い証かもしれません。分別されないごみを、処理できるごみ箱にだけ捨て続ける——その構図は、学校の掃除当番の押しつけと、どこか似ています。仕事の偏りを、突き放して冷静に見つめる読み物です。
SUMMARY集まるのではなく、押しつけられている
「できる人のところに、仕事は集まるものだ」。よく聞く言葉で、半ば美談のように語られます。けれど、その偏りが度を越しているとき、それは能力への信頼ではなく、組織が深く腐敗していることのあらわれかもしれません。仕事は「集まる」のではなく、ある場所へ「押しつけられている」。その構図を、一度、突き放して見てみる必要があります。
まだ入りそうに見えるゴミ箱にだけ、分別もしないごみを捨てていく。多くの時間をすでに仕事に割いている人から、さらに時間を奪う。客観的に眺めれば、それは「いじめ」と呼ばれるものと、よく似た形をしています。
掃除当番の、押しつけと同じ構図
学校で、面倒な掃除当番が特定の子に押しつけられる。あれは、いじめの典型的な入口でした。できる人に仕事が集中するのも、構造としては、これと同じです。断らない人、こなしてしまう人のところへ、皆が面倒を流し込む。流し込む側に悪意の自覚がないぶん、かえって質が悪い。「あの人は仕事が速いから」という言葉が、押しつけの後ろめたさを、きれいに覆い隠してしまうのです。
処断する者すら、いない
健全な組織なら、ここで上司が割って入ります。「同じ給料をもらっているのだから、お前がやれ」と。たとえ乱暴でも、その一言は偏りを正そうとする意志です。本当に腐った組織では、その処断をする上司すら、もういません。偏りは放置され、末端のやり取りは少しずついびつになり、客観的に見れば、もはやハラスメントやいじめとしか言いようのないものが、当たり前の風景として流れていきます。仕事の偏りは、その組織の腐敗を測る、静かな温度計です。
COLUMN白いタイルが映し出すモノ
ことの起こりは、ささいな人事でした。長く勤めた古参の女子社員が、寿退社する同僚の席が、なかなか補充されないと言って、騒ぎ始めたのです。一人欠けたぶん、トイレ掃除の当番が回ってくる頻度が増える。それが我慢ならない、と。「人を補充してくれなければ、もうトイレ掃除はできません」。彼女は、半ば脅すように、そう言い放ちました。
その騒ぎを聞きつけた青年は、いつものように、軽々と請け合いました。「わかりました、私が代わりの人員を補充します」と。けれど、その言葉のあとが、続かないのです。彼はその件で具体的に動くでもなく、それどころか、ほとんど出社さえしてこない。補充の話は宙に浮いたまま、当番の穴だけが、ぽっかりと残されました。言い切った本人だけが、現場から姿を消したのです。
困ったのは、残された私たちでした。青年が「補充する」と約束してしまった手前、その面子を、誰かが立てなければならない。人が入るまでのあいだ、誰かがその穴を埋めるしかない。結局、一時的なつもりで老経営者と、出向中の私とが、帰宅する前の最後の三十分を使って、トイレ掃除を引き受けていました。ファンドから来た人間と、経営者が、ブラシとバケツを手にして、です。
不思議なのは、その光景を見ても、「やめてください、私がやります」と名乗り出る社員が、ただの一人もいなかったことです。みな、見て見ぬふりをして、自分の席に座っている。気の毒に、とか、申し訳ない、と思っているそぶりも見えてこない。苔むした日本庭園の様に、誰も、何も動かない。動けば、その面倒が自分のものになると、わかっていたからです。その組織は、もう、そういう場所になっていました。
あとになって、私は気づきました。そもそもこの流れ自体が、青年の仕立てた、巧妙な嫌がらせのドツボだったのだと。できる者、断れない者のところに面倒が集まる——その構図を、彼はよく知っていて、意図的に作っていたのです。「補充する」と請け合って動かないことで、宙に浮いた面倒を、必ず誰かが拾わざるを得なくなる。そして拾うのは、いつも、拾える者だけ。彼は、自分が嫌う相手に汚れ仕事が回るように、盤面を組んでいたのです。
掃除当番の押しつけが、学校でのいじめの入口だったことを、思い出します。あれと、まったく同じ構造が、いい大人の集まる会社の中で、堂々と回っている。健全な組織なら、誰かが「同じ給料をもらっているんだから、お前がやれ」と、割って入ったはずです。けれど、ここには、その一言を言う人が、もういませんでした。偏りを正す意志そのものが、とうに、この会社から抜け落ちていたのです。
便器を磨きながら、老経営者は、片頬で笑いながら言いました。「この会社なら、いくらの値札がつくのだろうね」。私もまた、黙って手を動かしながら、考えていました。事業の数字がどうという以前に、人と人のあいだの、いちばん基本的な何かが、ここでは死んでいる。それを、冷たいタイルの感触とともに、思い知らされていました。
のちに、この会社を売りに出す、買い取らせる、という話が、いくつも飛び交いました。あの青年は、相変わらず「この会社には価値がある、だから私の実家が買い戻します」と吹聴して回っていたそうです。けれど、私はいまでも思うのです。経営者がブラシを握ってトイレを磨いても、代わりますと名乗り出る者が一人もいない会社に、いったい、いくらの値札がつくつもりでいたのか、と。そして、その問いに、具体的な数字で答えを返せる者は——あの会社には、ついぞ、一人もいませんでした。
あなたの職場で、面倒な仕事はいつも、同じ人のところへ流れていませんか。
そして、その偏りを見て「お前がやれ」と止める人は、まだ残っているでしょうか。止める者がいなくなった組織では、押しつけはやがて風景になり、誰も異常だと感じなくなります。経営者が一人でトイレを掃除しても、代わりが名乗り出ない——そんな会社に、いったいいくらの値札がつくのか。その答えを、数字で言える人は、たぶん一人もいません。
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