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立場は大人、人として成熟しているか

経営者、役職者、父。立場の上では、あなたはまぎれもなく大人です。役職があり、決裁の権限があり、家庭では一家の長として扱われる。けれど、その「立場の大人」と、「人として成熟していること」とは、はたして同じものでしょうか。ひとり胸に手を当てて、自分に問い直してみる読み物です。

A COMPANY READING ・ 立場の成熟と、人の成熟

SUMMARY

年齢を重ね、役職に就き、人の上に立つ。多くの人が、いつのまにか「自分はもう大人だ」と感じるようになります。けれど、その実感の多くは、立場が与えてくれたものです。肩書きや権限や年齢は、外から人を「大人らしく」見せてくれる。問題は、その立場の成熟と、人としての中身の成熟が、いつも一致するとは限らないことです。形のうえで整っていることと、本質として整っていることは、しばしば別物です。法律に適っていることがそのまま正しさを意味しないように、立場が整っていることも、その人の成熟を意味しはしません。

立場の上で大人であることは、たやすい。歳をとれば、役職が上がれば、誰でもそうなる。難しいのは、人として成熟していること。その差は、三つの小さな振る舞いに、案外はっきりと表れます。

① 疑わない

はじめに断っておきたいのは、これは「何でも信じ込め」という意味ではない、ということです。むしろ逆に近い。信用できる人としか付き合えないのなら、世の中には家族くらいしか相手がいなくなってしまう。信頼できる相手としか何もしないなら、見知らぬ他者だらけのこの世界で、あなた自身が果たせる役割は、ひどく小さなものになります。成熟とは、その場の格付けや損得を自分の中でそっと処理し、初対面の相手とのあいだにも共通の言葉を見つけ、信用や信頼に寄りかからずに関係を結べる力のことです。疑わないとは、盲信することではなく、信用への依存から自由であること。相手を値踏みしないと動けない人ほど、実は人として狭いのかもしれません。

② 確かめる

信用、信頼という言葉を口にしながら、あなたは本当に相手を確かめたでしょうか。たとえば、ふだんの身なりや物言いだけで人を判断し、その人が実はある分野で名の知れた人物で、全国に人脈を持っていた——そんなことを、後になって知る。確かめる習慣がないのに、いったい何を根拠に信用していたのか。結局それは「相手」を信用していたのではなく、「自分の見立て」を信用していたにすぎない。その見立てが絶対でないと分かった瞬間、信用は音もなく崩れます。確かめるとは、自分の判断を過信していないか、事実によって検証しつづける習慣のことです。

③ 断る

人は、NOと言われ慣れていません。だから断られると、つい腹を立てる。そして同じ理由で、自分が嫌われたくないあまり、本当は断るべきことまで引き受けてしまう。本当に自分を通すとは、声を荒げて押し通すことではなく、角を立てずに、それでも明白にNOを伝え、やりたくないことをやらずに済ませられることです。断るとは、関係を壊さずに、自分の輪郭を守る力。これができないうちは、いくら立場が上でも、自分の人生の舵を自分で握れているとは言いにくいのかもしれません。

疑わない、確かめる、断る。どれも、立場や肩書きとは関係のない、人としての中身の問題です。三つとも、できているか。あるいは、立場の大きさに隠れて、見ないふりをしてきたものはないか。
この記事は、誰かを「未熟だ」と断じるものでも、「こうあるべきだ」と命じるものでもありません。成熟の形はひとつではなく、ここに挙げた三つも、絶対の物差しではありません。ただ、ときどき立ち止まって自分を顧みるための、小さな問いとして差し出すものです。

COLUMN

借り物の確信

その若い経営者は、この半年ほどで世界のすべてを手に入れたつもりでいました。手元の画面に問えば、何でもたちまち答えが返ってくる。法律も、税務も、マーケティングの常識も、その画面は深夜でも文句ひとつ言わずに差し出してくる。彼はそれを、自分の知識だと信じ込みました。近頃はその手の出力に、もっともらしい顔をして平気で事実をゆがめる、ハルシネーションと呼ばれるくせがあるということを、彼は知らない。いや、知ろうともしなかった。確かめるというひと手間が、全能感の邪魔だったのです。

その「確かめなさ」は、それ自体がじりじりと金を流していました。画面が生成したもっともらしい法律論をそのまま口にしては、本来なら起きなかったはずのいざこざを招く。やがて、本来はその必要もなかったのに、「それを口にする前に一度確かめる」ためだけに、法律の専門家と顧問契約を結ばねばならなくなった。確かめない人間がひとりいるだけで、その周りは、彼の代わりに確かめる人手を、金で雇う羽目になるのです。広告もそうでした。「今どきチラシなんかに効果はない、ネットのほうが優れている」と、その道の経験もないままに言い切り、リスティング広告に毎月数十万円を、もう何ヶ月も垂れ流し続けていました。コンサルティングを謳う会社が、自分の集客の見立てを、一度も詰めていなかったのです。

ある会社の取締役会で、彼はひとりの取締役を、いつもの調子で「それはコンプライアンス違反ですね」と難詰しました。画面で読んだ聞きかじりの知識を、その道で何十年も生きてきた人間に、確かめることもせずに突きつけた。どうせこの手の相手に、法律を論じるつてなどないだろうと、心のどこかで高をくくっていたのです。ところがその取締役の人脈から、単著を何冊も持つ弁護士が現れ、彼は家で適当に生成した思いつきを、こんこんと諭される羽目になりました。以来、彼は取締役会を欠席し、次の株主総会での退任を申し出ているという。

彼が確かめなかったものは、二つありました。ひとつは、画面の知識が本当かどうかを、その道のプロに確かめなかったこと。だが、本当の急所はもうひとつのほうでした。彼は、目の前の取締役がどれほどの人間なのか、自分との間にどれだけの差があるのかを、一度も測ろうとしなかった。彼が見くびって確かめなかったのは、知識だけではなく、目の前の人間の大きさそのものだったのです。

彼の会社は、愛人と二人で始めたインスタグラムのフォロワーが数百人になった有頂天のさなかに、「SNS運用代行会社」として産声をあげたものでした。二年がたった今も、実態のない名ばかりの会社のままです。結局辞することになったその取締役会でも、彼は自宅でビールを飲みながら、事業体の不利益になるような言動を毎日のように生成していた。人と人が集まる場では、だれもが口にはしないが、損得をもとに「普通、こうする」という前提を共有している。その共通の言語の上に足を置けていたなら、彼は自分の主張よりも会社の損得を見て動いたはずです。なのに彼は、自分の見立てにしがみつき、その共通の言語から、自ら逸脱していった。他の取締役たちから見れば、彼はもはや「こうすればこう動く」と読める仲間ではなく、何をしでかすかわからない異物になっていたのです。確かめなかった男が、今度は確かめられる側に回り、いつのまにかリジェクトされていた。

知らない、という理由で

なぜ若者は田舎を出ていくのか。なぜ田舎は、いくら手を尽くしても人が増えないのか。世間は、都会には自由があり田舎にはないからだと言います。けれど、本当の違いはもっと別のところにあるのかもしれません。人と人がどれだけ広く、軽やかにつながれるか——その広がりの違いです。意外に思われるかもしれませんが、近所づきあいさえ、田舎の奥にいくほど、実は薄いことがある。

その薄さの核心に、ひとつの言葉があります。移住してきた者を指して、老人がもらす「あいつらは何をするかわからん」というひと言。家に招いて何かを盗まれたらどうする、に近い感覚です。しかし考えてみてほしい。酒場で隣に座った見知らぬ相手を、いちいち警戒して観察してかかる人が、どれだけいるでしょうか。「普通、人は泥棒などしない」——その、言葉にさえならない共通の前提の上に、人は見知らぬ誰かとも軽やかに言葉を交わせる。その前提が通じない世界では、あらゆる関係が、まず「疑う」ところから始まってしまう。

疑うことから始まる世界は、閉じていきます。言葉の通じる世界に、人は自然と寄っていく。そして、ここが本当の恐ろしさなのですが——よそ者を疑い、咎め、人手不足をいいことに使いたてる、大きな世界からは見えない小さな群れの生態は、それ自体が「共通の言葉を持たない異常な集団」に見える。だから人が寄りつかず、担い手が消え、ため池や農道といった自らの生計の基盤でさえ手入れもできなくなる。疑う者は、やがて疑われ、やせ細っていく。それは警戒を捨てろという話ではありません。警戒しなくても立っていられるだけの、共通の言葉の上に足を置けるかどうか、という話です。

どけてくれ、と言われて

その村に、ひとりの青年が喜び勇んでやってきました。積立投資で得た思わぬ利益を踏み台に、早めのリタイアを決め込み、のんびりした暮らしを手に入れるつもりだった。村の人々は、青年を笑顔で迎えました。第三者から見ればどこか貼りついたようにも見えるその笑顔から、彼は何の違和感も感じ取れず、ただ純朴さのしるしだと思い込んでしまった。

だが、担い手の足りない村人は、草刈りを、ため池掃除を、次々と持ち込んできました。大正の頃から道幅の変わらぬ村で、隣の老人は、青年が自分の家の最寄りに車を止めることを、毎日のように咎めて騒ぎ立てる。「邪魔だから、どけてくれ」。一日にカラスとイノシシが百匹通る可能性はあっても、車は十台も通らないだろう道の、その「邪魔にならない」ために、青年は毎日、十分余計に歩くことになりました。

彼もまた、確かめなかったのです。目の前で笑う人を、「田舎の人」という一語で塗りつぶし、その下にいるひとりの人間を見なかった。田舎だろうが都会だろうが人間で、住所で中身が揃うはずもない。田舎の老人は外から来た者を一括りにして非人間化し、あの起業家は相手を低く見くびり、この青年は相手を高く美化した。一人は見下し、一人は驕り、一人は無邪気に美化した。思考停止する方向がそれぞれ違っただけで、どれも、目の前の相手を自分の見立てで塗りつぶした点では、まったく同じでした。

そして彼は、断ることができませんでした。今までの仕事で得た知識も、都会で得た稼ぎも、彼の生活を何ひとつ守りはしませんでした。本来なら、その暮らしを守るために、付き合いきれない依頼には角を立てずNOと言い、それでも自分のペースで田舎を満喫すればよかった。だが彼は、嫌われたくないというただそれだけの理由で、輪郭を少しずつ削られていったのです。

この村がやせ細った本当の理由も、たぶんここにあります。村は、咎め、使役し、共通の言語を壊す振る舞いをする者を、意思決定から「断る」ことができなかった。逸脱する振る舞いを外せず、そのまま集団の色として育ててしまった。

青年は、やがて静かに荷造りを始めた。

荷物をまとめながら、彼がひとつだけ考えたことがあったそうです。今までの仕事で得た知識も、都会で得た稼ぎも、どれひとつとして、毎朝余計に歩かされるその十分から自分を守ってはくれなかった。では、生活を守るために、本当に必要だったものは、いったい何だったのでしょうか。

青年も村もある会社も、断らなかったことで輪郭を侵され、何かを失った。

あなたは立場の上では、もう大人です。では、人としては。

疑わずに人と向き合えるか。確かめることを怠っていないか。角を立てずに、それでも断れるか。誰かに問われることのないこの三つを、ときどき自分で自分に問えること——その静かな習慣こそが、立場ではない成熟の、たぶん入口なのだと思います。

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