贅沢は、構わない——倹約を忘れさえしなければ
贅沢そのものは、悪ではありません。怖いのは、一度きりの散財ではなく、毎月静かに効いてくる浪費のほうです。倹約とただのケチはどう違うのか。削るべき出費と、削ってはいけない支出の線引きを掘り下げます。
はじめに——これは「地方の金融機関」共通の話
ここで述べる手続き・心得は、地方金融機関のいずれでも共通するフローだと思ってください。都市銀行(メガバンク)を別にすれば、地域の金融機関との付き合い方は、おおむね同じ作法で通ります。
一度きりの十万円より、毎月の二万円が怖い
前の記事で、積立は一年続けられる額を倹約して作る、と書きました。では、倹約とは何を削ることなのか。
まず、贅沢そのものは悪ではありません。問題なのは、贅沢の「かたち」です。たとえば、一度きりの十万円の外食は、それで終わります。痛手は一回で完結する。けれど、毎月二万円の無駄遣いは、終わりません。毎月、余力を静かに削り続けます。
怖いのは、単発の散財ではなく、固定費になった浪費のほうです。月々の小さな垂れ流しは、本人がいちばん気づきにくく、そして積もると一年で二十数万円、数年で身動きの取れない重さになります。倹約とは、この「毎月効いてくる出費」に目を向けることです。
AIやGoogle Workspaceなど、事業のうえで必要な月額課金が増えていく昨今、この区別はかえって難しくなりました。だからこそ、毎月出ていくお金の一つひとつを、シビアに選り分ける必要があります。
破産していく人に、共通する癖
返せなくなっていく人を数多く見てきましたが、共通する癖があります。「小さな自分へのご褒美」が、多すぎるのです。
少し古い話ですが、携帯電話のiモードの時代、かけてきた相手に自分の好きな曲を流せる着信メロディの月額課金がありました。数百円の、ささやかなものです。けれど、返済に行き詰まる人の電話には、たいていそれが設定されていました。金額の問題ではありません。「これくらいは」という小さな出費を、いくつも手放せない。その思考の癖が、表れていたのです。
もう一つ。どんなにお金に行き詰まっても、借金してでも家族旅行のような恒例行事をやめようとしない人がいます。家族を思う気持ちは、尊いものです。
けれど、考えてみてください。「今年からは倹約して、まず負債を減らしたい。それまで家族旅行は控えたい」と打ち明ける決断と、それを隠すために見栄を張り続けること。どちらが本当に家族のためになるのでしょうか。そして、当然ながら、世間はそこを観察しています。
倹約と、ただのケチは違う
ここで、はっきり線を引いておきます。倹約と、ケチは、まったく別のものです。
倹約とは、自分の娯楽や見栄のための出費を削ること。一方ケチとは、自分の楽しみや見栄には払うのに、他人が得をしたり、自分や事業が伸びたりするための支出を惜しむことです。
たとえば、ソーシャルゲームには二千円課金するのに、商売の引き出しになるかもしれない新しい道具——たとえば有料版のAI——には、無料のものしか触れようとしない。誰かに「この一本が面白い」と映画を勧められても、わざわざは観にいかない。手の届く範囲で消費はするけれど、新しい知見にはお金も手間も払わない。これは倹約ではなく、知性への無関心です。
あるいは、人手不足に頭を抱えている経営者が、同じ地域の少年スポーツへの一万円の寄付からは逃げようとするのに、キャバクラで使う十万円はもったいないとも思わない。地元の子どもたちへの一万円は、めぐりめぐって「あそこの社長は地域のために」という評判になり、人を集める土壌になるかもしれません。返ってくる可能性のある支出から逃げ、消えて何も残らない出費には平気で払う。これもまた、ケチです。
削るところを、間違えない
つまり、こういうことです。自分が消費して終わる出費は、惜しみなくする。けれど、自分や事業に返ってくるかもしれない支出は惜しむ。これがケチであり、いちばん削ってはいけないところを削っている状態です。
倹約で削るべきは、前者——自分の娯楽や見栄です。経営や商売に返ってくるかもしれない自己投資や、地域との関係に使うお金は、削る対象ではありません。
身の丈を整えるとは、何もかも切り詰めることではありません。消えていくお金を見直し、返ってくるお金は残す。その選り分けができたとき、毎月よけられる余力が生まれ、それが積立になり、いずれ信用になります。