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名刺の肩書きと、本当の信用

名刺には、その人が「見せたいこと」が書いてあります。けれど、誰かに見せようとしていない人の、本当のタグは、名刺には載りません。本質は、むしろ隠されたものの中にしかないのかもしれない。肩書きという記号と、本当の信用のありか——その距離を、静かに見つめる読み物です。

A COMPANY READING ・ 見せたいものと、隠すもの
この記事のタグ 経営者の器 法と倫理

SUMMARY

名刺とは、不思議なものです。そこに書かれているのは、その人が「見せたいこと」だけ。肩書き、所属、資格——どれも、相手にこう見られたいという願いの結晶です。逆に言えば、本当に大切なものを、人は名刺には書きません。見せようとしていないものこそが、その人の核なのに、名刺はいつも、見せたい表面だけを差し出してきます。

イワシやシマウマや牛が名刺を作るとして、そこに「私は食べやすくて美味しく、あなたの食料に最適です」と書くでしょうか。書くはずがありません。本質は、いつも隠されたものの中にあります。

見せたい人ほど、見せたいものしかない

立派な肩書きの名刺を、進んで配りたがる人がいます。けれど、その熱心さは、ときに裏を語っています。名刺の肩書きで信用を補わなければならないのは、肩書きを外したときに見せるものが、心もとないからかもしれません。本当に確かなものを持っている人は、それを名刺の上で証明する必要を感じません。見せたいものが少ない人ほど、その少ないものを、繰り返し差し出すのです。

渡したがるのは、いつも誰か

たとえば、生まれながらに資産のある家の人は、「資産家」という肩書きの名刺を作りません。その必要がないからです。むしろ、その人にどうしても名刺を渡したがるのは、世間で信用されやすい肩書きを持った側——銀行員や、大手の建設会社や、開発業者の人だったりします。肩書きを差し出す側と、差し出す必要のない側。そのどちらに本当の信用が宿っているかは、名刺の枚数とは、逆かもしれません。

名刺は、見せたいものの一覧です。本当に価値のあるものは、たいてい、そこには書かれていません。人が何を名刺に刷り、何を刷らなかったか——その差にこそ、その人の核が、こっそり顔を出しています。
この記事は、名刺や肩書きそのものを否定するものではありません。肩書きは、初対面の相手に手早く文脈を伝える、便利な道具です。ここで問うているのは、肩書きという「見せたい記号」を、その人の中身そのものと取り違えていないか——という一点です。

COLUMN

ある男のことを、思い浮かべます。彼は、代々続く土地持ちの家に生まれました。広い山林と、町なかのいくつかの区画と、それらが生む安定した実りを、生まれたときから当たり前のものとして持っている。けれど彼の名刺を、誰も見たことがありません。そもそも、持っていないのです。「資産家」と刷った名刺を作る必要を、彼は一度も感じたことがない。自分が何者かを、紙の上で誰かに告げる理由が、彼の人生には存在しなかったのです。

おもしろいのは、その彼のもとに、名刺がひっきりなしに集まってくることでした。差し出すのは、いつも決まって、世間で信用されやすい肩書きを持った人たちです。地方銀行の支店長、大手建設会社の部長、名の知れた開発業者の役員。彼らは競うように、両手で、恭しく、自分の肩書きを彼の前に置いていく。立派な紙に刷られた、立派な所属と、立派な役職を。

その様子を、少し離れて眺めていると、奇妙な逆転に気づきます。肩書きを持つ側が、肩書きを持たない側に、必死で肩書きを差し出している。信用されやすい記号を持っているはずの人たちが、何の記号も持たない男の前で、なぜか、品定めされる側に回っている。彼らの立派な名刺は、その瞬間、信用の証明ではなく、信用してほしいという願いの紙きれに見えてくるのです。

なぜ、こんなことが起きるのか。男が持っているものは、名刺に刷れないものだったからです。先祖から受け継いだ土地。町での長い時間。利害を超えて積み上がった、近隣との信用。それらは、肩書きのように一行で要約できない。要約できないから、名刺には載らない。載らないけれど、それこそが、銀行員たちが本当に取引したくてたまらない、確かなものだったのです。彼らが差し出す肩書きは、その確かなものに、あやかりたいという合図でした。

名刺に肩書きを刷る、という行為を、もう一度考えてみます。それは、初めて会う相手に、自分を手早く信じてもらうための工夫です。けれど裏を返せば、肩書きの助けを借りなければ信じてもらえない、という前提に、自ら立っているということでもある。本当に確かなものを持っている人は、その証明を、紙に肩代わりさせる必要を感じません。見せる必要がないほど、それは確かにそこにあるからです。

もちろん、肩書きを刷ること自体が悪いわけではありません。世の中のほとんどの仕事は、肩書きという便利な記号なしには、回りません。ただ、見せたいものを差し出す熱心さと、その人が本当に持っているものの確かさとは、しばしば反比例する。たくさん見せたがる人は、たくさん見せなければ足りないものを、抱えているのかもしれない。逆に、何も見せようとしない人の懐に、いちばん見たかったものが、しまわれていることがあるのです。

人は、本当に大切なものを、どこにしまうでしょうか。蔵の奥か、床下か、あるいは誰にも言わない胸の内か。少なくとも、玄関先に「ここに大切なものがあります」と札を立てる人は、いません。大切なものを隠すとき、人は、そこへの案内札を立てたりはしないのです。だとすれば——立派な札の立っているほうではなく、何の札もない、素通りしてしまいそうな場所のほうを、一度のぞいてみること。本当に探しているものは、たいてい、案内札のない場所にあります。

あなたは、大切なものを隠すとき、そこへの案内札を立てますか。

本当に守りたいものに、人は目印をつけません。名刺に大きく刷られた肩書きは、見られたい場所への案内札です。では、案内札の立っていない場所には、何があるのか。相手の名刺を受け取ったとき、そこに書かれなかったものへ、目を向けられるかどうか——本当に探しているものは、たぶん、そちらにあります。

提供:¥Today

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